cresc(クレッシェンド)は音楽をやっている人にはおなじみ、というか知らなきゃいけない用語ですね。
意味は、そう「だんだん大きく」ですよね。
元々音楽用語はイタリア語でして、イタリア語でのcrescendにはどういう意味があるかご存知ですか?
「育つ」とか「成長する」という意味があるのです。
ですから、crescendする場合は、音をただ大きくするのではなく「音を育てる、成長させる」イメージが必要なんです。
同じように、「フォルテ」には「強く」という意味がある、って教わりますが、これも「丈夫な、激しい」といった意味があります。
だからフォルテの表記はただ強くするのではなく「激しさを持った」強さが必要です。
アレグロなんて「速く」なんて思われてますけれど、実際には「陽気な」という意味です。
陽気なイメージは少し小走りな、わくわくする感じなんですよね。
それの一面だけ取って「速く」って思われてるのでしょう。
クラシック音楽を演奏する、という事の第一段階は「楽譜を読む」事から始まります。
楽譜に書いてある表記は全て重要で、それらを読んでから初めて曲の内面に入り込みます。
そんなときにallegroと書いてあったからただ速く演奏するという事ではありませんよね。
こういう事をやって、はじめて「楽譜に忠実」といえるのだと思います。
メトロノーム表記があって、メトロノームに忠実な演奏が「楽譜に忠実」とは限りません。
むしろ重要なのは「関係性」です。
昨年の吹奏楽コンクール課題曲の「架空の伝説のための前奏曲」は、テンポ表記がよく変わる曲でしたが、冒頭と最後、そして中間部へのつなぎが同じメトロノーム速度になっています。
そして中間部のゆったりしたテーマの速度、実は冒頭で示されているテンポより速いのです。
ただメトロノームに合わせるだけでなく、ここにこめられた意味を知るべきです。
冒頭、中間部(へのつなぎ)、最後の速度が一緒という事は、この曲の基本テンポがここで示されている事に他なりません。
そしてこの速度より「遅くなるテーマ」は存在しないのです。
ゆえに、中間部は後ろ向きな音楽ではなく、前進性を持った「前向きな旋律」であるべきです。
これこそがメトロノーム記号に込められた意味で、あくまでメトロノームが示しているのは「テーマ毎の関係性」なのです(もちろん速度表記が示す「曲の情景」もあります)。
ところが、コンクールなんかで実演を聴くと、勝手にこの中間部のテーマを遅く演奏したり、冒頭、つなぎ、最後のテンポが全然違かったり、と完全に作曲家が楽譜に残した思いを踏みにじる行為が行われている、と私は感じました。
吹けないからといってタンギングを全部スラーにすると意味が変わってきますよね?
冒頭のリズムが込み入ってくるところの面白さを聞かせずに、勝手にstringendoしてうやむやにするとか。
我が母校ではテンポの関係には気をつかって演奏させていただいたのですが、審査員の講評の中に「楽譜に忠実な演奏でしたね」と書かれていました。
それがどういう意味で書かれたのかは知りませんが、そんな事が講評用紙に書かれた事自体が私は驚きで、そんな当然の事しかもしかして書く事が無かった演奏だったのだろうか、とちょっと悩んだりもしました(苦笑)。
楽譜に忠実な演奏をする、という事は当然の事なのではないのですか?
吹奏楽コンクールは指揮者コンクールではないので、あくまで演奏者の技術などに主眼をおくのかもしれません。
ですが、楽譜に書いていない事どころか、楽譜に書いてあることまで無視をして演奏する事にいったいどれだけの意味があるのでしょう。
パクス・ロマーナというマーチを課題曲でやった時の事です。
私は生徒達に遅いテンポを要求しました。
「ローマの平和」を意味するこのマーチにおいて、戦争中の軍隊を描いたわけではなく、あくまでローマ軍がローマ市内を皇帝の御前で一糸乱れぬ荘厳な行進を見せる、というイメージでしたから。
遅いテンポだからこそ、三連譜と付点音符の動きに違いが出せて、より迫力をもった荘厳な皇帝登場のファンファーレに結びつくと考えました。
ただし、それをきちんと伝えきれなかった私の責任は大きく、コンクールではそれを表現するどころか非常に中途半端なものになってしまいました。
(当時の生徒諸君には申し訳なく思っています)
しかし、コンクールでこのマーチを聴かせたところは皆一様に「速い」テンポでした。
それはとてもローマ軍なんかを想起させず、まるで映画音楽でも聴かされているような、ローマ風サウンドのマーチでした(そのほとんどがエラい軽い)。
確かにそれはそれでカッコイイ演奏でしたし、技術的にも素晴らしい演奏が多くて「おー」とは思いましたが、私が指揮をする限りはそういうアプローチは決してしないなぁ、と。
まぁこれは私の解釈がそうだった、というだけの話ですので、ただ単に私の曲への理解度が低かったのかもしれません。
私には自分が指揮をするときのモットーがあります。
それは「いかに指揮者の存在を消すか」です。
私なんかよりずーーーーーっと才能のある作曲家の方々が書いてくださった曲を、経験と知識、テクニックを駆使して音楽として響かせる以上に、私の役目はありません。
そこに「私らしさ」なんてなくていいのです。
おかげさまでベトプロなんかでベートーヴェンのシンフォニーが終わってから「とても素晴らしいベートーヴェンだった!」とお褒めの言葉をいただきますが、「ぎじんのベトはいいねー」とか「指揮者が良かった」とか「あの解釈がどーのこーの」という評は一度ももらったことがありません。
ありがたい事です。
それはすなわち私という存在が無くなって、ベートーヴェンという偉大な作曲家の書いた曲がオーケストラの皆さんの力によって聴いてくださった皆様方に伝わった、という事なのですから。
本当は吹奏楽の指揮においても同じ状況になりたいのですが、生徒の皆さんはまだそういう余裕がありませんのでどうしても大振りになってしまいます。
でも今年こそは私という存在が無くなって、作曲家が曲に込めたものを、生徒の皆さんの演奏によって聴いてくださる皆様に伝える事が出来たら、私にとっては最高のフィナーレになるんだと思っています。
そして、それこそが本当の意味での「楽譜に忠実」な演奏なのだと思うわけです。